ゆるゆるとしたブログ

つらつらと覚書

台所

料理酒が温められてその匂いがあっという間に共用のキッチンを満たした。一瞬で食欲と郷愁を駆り立てる。

 

昨日、同居人のひとりがおやつにクッキーを作ったようだ。バターの匂いが廊下にまで充満していた。

私の日本の実家ではクッキーはそうそう焼かない。バターを使う料理はさほど日常的なメニューではない。

でもきっと彼女にとっては、昨日の廊下はホームだっただろう。

 

他のある日、また違う同居人の夕食はカレーだった。自室の扉を開けて流れ込んできたスパイスの匂いに、思わず食指が動く。

彼女の故郷を私は知らない。聞いてみる機会も逃し続けている。それでもあの匂いはあまりにも強く、そして瞬間的に私に異国への憧憬の念を抱かせる。

次こそ彼女に故郷を聞けるだろうか。

 

今日も世界が台所に集まる。

中毒性

だめだ。

もう二度と。

また傷つくことになる。

そうわかっているのに。

 

本や映画やドラマに心を奪われてしまったときのあの昂り、ときめき、輝き。

問題はそのあと。

引き剥がして現実に戻るときのやるせなさ。切なさ。もどかしさ。そして虚しさ。

 

苦しくなるとわかっていながら飛び込むのは愚かだ。

絶望があるとわかっていながら快楽を求めてしまうのは弱いからだ。

きっと制御できるだろうと途中までは思っているのは傲慢だからだ。

 

そうとわかっていて嵌っていく。嵌るのもまた快楽なんだろう。

他人に振り回されることへの悦び。

 

いつかは私があなたを振り回してあげたい。

 

 

先の見えない時代に

9年前。

「いったい音楽には何ができるのか」

日本にいた音楽家なら一度は自問しただろう。音楽家をやっと志したばかりだった私には何の答えも無かった。9年間ずっとその問いを抱えたまま歩んできたが、また似たような壁にぶち当たり、色々と考えたので、自戒の意味も込めてここに現時点での想いを記しておきたいと思う。

音楽とは災害時に特に不要とされるもののひとつだ。当の音楽家たちはそれをよく知っていて、有事の度に無力を痛感する。

「音楽は不要不急」

日本におけるコロナウィルス流行の早い段階からそう位置づけられた。コンサートやイベントを中止したことには何の異論も無いが、「不要不急」という認識に私は勿論断固反対だ。ところが音楽家自ら口に出す人もいた。私はそこに含まれた自嘲の響きに引っかかりを覚える。

震災やコロナ禍など、人間が各々の存在価値を特に問うとき、私たちはいやでも自分自身と向き合うことになる。そこで「不要」と判断されてしまえば、無くてもいい存在なんだ、誰にも必要とされないんだ、と卑屈になって、でも誰かにその辛さをわかって欲しくてがんじがらめになって、「どうせ音楽なんか不要不急ですよ」といじけてみたりする。

しかし、それは本当に私たちの望む主張なのだろうか。心の奥底を覗いてみれば、きっと私たちは何にもできないことがただ辛くて、必要とされないことが悲しくて、見捨てないでくれと言いたいだけなのではないだろうか。

私たちに必要なのは、仲間内で肩を寄せ合い音楽家の不必要性を確認することではない。こんな時だからこそ、胸を張って自分たちが必要とされていると信じるべきなのだ。音楽と生きるために。

オーケストラが一つ潰れようが、音楽番組が一つ消えようがどうでもいいと思う人は山ほどいるだろう。しかし私たちが今そこに目を向ける必要は全く無い。音楽を愛してくれている方々のためにできることは何だろう。まずは音楽家自身が自らの存在に誇りを持ち、愛し守ること、それなくして音楽の未来は無いだろう。

まるむし帳とこのブログについて

 

先月、さくらももこさんが亡くなった。

私にとってのさくらももこさんは、勿論ちびまる子ちゃんの人でもあるが、それ以上に「まるむし帳」の人だ。

小学生だったある日、父が「まるむし帳」を買ってきて、私にくれた。ぱらぱらめくると文字が少しずつ書いてあった。私にとって初めての詩集。たくさんのやわらかい言葉でできた「まるむし帳」は、新しい視点や嬉しい共感に満ちていて、すぐに愛読書となった。そして読み終わって早速、自分でもこんな詩を書いてみようとノートを取り出した。これは最初に書いたもののうちの一つ。

 

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感じない、考えない。

すべての思考を外に追い出す。

もう考えてないかな。

いや、「考えてないかな」って

考えてるじゃないか。

寝ているときはどうだろう。

いや、考えてる。

夢の中で。

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この時から私は、たまに短い文章を――それまでハマっていたような(永遠に完結しない)空想の物語ではなく――書いてみるようになった。それは今でも細々と続いているが、悪い意味でより内面的になってしまった。

 

私は幼い頃から作文でも日記でも、大げさで仰々しい文章を書くのが大好きだったので、ブログというものには手を出してみたいとかなり前から思っていて、でも発信するような話もないし、とずっと逡巡していた。一方で趣味が欲しいともずっと考えていて、でも無理につくっても文字通り三日坊主で終わるのは目に見えていた。

さっき、お風呂を出て髪を乾かしながら思い立った。だったらここで気ままに文章を書こう、と。

 

そんなわけで今日からゆるゆると始めます。

 

ありがとう、さくらももこさん。