ゆるゆるとしたブログ

つらつらと覚書

先の見えない時代に

9年前。

「いったい音楽には何ができるのか」

日本にいた音楽家なら一度は自問しただろう。音楽家をやっと志したばかりだった私には何の答えも無かった。9年間ずっとその問いを抱えたまま歩んできたが、また似たような壁にぶち当たり、色々と考えたので、自戒の意味も込めてここに現時点での想いを記しておきたいと思う。

音楽とは災害時に特に不要とされるもののひとつだ。当の音楽家たちはそれをよく知っていて、有事の度に無力を痛感する。

「音楽は不要不急」

日本におけるコロナウィルス流行の早い段階からそう位置づけられた。コンサートやイベントを中止したことには何の異論も無いが、「不要不急」という認識に私は勿論断固反対だ。ところが音楽家自ら口に出す人もいた。私はそこに含まれた自嘲の響きに引っかかりを覚える。

震災やコロナ禍など、人間が各々の存在価値を特に問うとき、私たちはいやでも自分自身と向き合うことになる。そこで「不要」と判断されてしまえば、無くてもいい存在なんだ、誰にも必要とされないんだ、と卑屈になって、でも誰かにその辛さをわかって欲しくてがんじがらめになって、「どうせ音楽なんか不要不急ですよ」といじけてみたりする。

しかし、それは本当に私たちの望む主張なのだろうか。心の奥底を覗いてみれば、きっと私たちは何にもできないことがただ辛くて、必要とされないことが悲しくて、見捨てないでくれと言いたいだけなのではないだろうか。

私たちに必要なのは、仲間内で肩を寄せ合い音楽家の不必要性を確認することではない。こんな時だからこそ、胸を張って自分たちが必要とされていると信じるべきなのだ。音楽と生きるために。

オーケストラが一つ潰れようが、音楽番組が一つ消えようがどうでもいいと思う人は山ほどいるだろう。しかし私たちが今そこに目を向ける必要は全く無い。音楽を愛してくれている方々のためにできることは何だろう。まずは音楽家自身が自らの存在に誇りを持ち、愛し守ること、それなくして音楽の未来は無いだろう。